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粋な生き方; 「宵越しの金は持たない」

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最近友人から、下記の小唄を英訳して欲しいと頼まれた。 「涼しげに 水の音する柳影 月に隠れて飛ぶ蛍」 この唄の情景は次のようになる。 「水の音を聞いて心地よい 柳影から見上げると月が見える そして沢山の蛍が飛び舞っている」 とても美しい情景が浮かんでくる。 だかこれは芸者が歌う唄、だから次のように訳した。 訳した唄   “Refreshingly The sound of water resonates the silhouette of a willow Flying fireflies hidden by the bright moon” 唄の情景 月夜に一人柳のそばにたたずむ私 何はともあれ水の音が私の気持を慰めてくれる ああ、月の光に隠れた二匹の蛍が睦まじく飛びまわっているわ 人の目なんか気にしないでもっと仲良く飛んで 私の願いも載せて飛んで 英訳の解説 小唄は江戸時代の花柳界で、芸者によって唄われた。小唄の最大の特徴は「粋(いき)」にある。粋は日本人の考え方や文化が生み出した感性概念であり、フランス人のエスプリのように英語には粋にあたる言葉はない。 粋は媚態、意気地、諦めで構成されているという(九鬼周造「粋の構造」)。この唄をもとに説明を試みると、次の情景が立ちのぼる。 唄の主は芸者、やむなく客と懇ろにならざるをえない場合もあるが、決して心は売らない。 彼女には心から好きな男がいるが、諸般の事情により会うことはかなわない。そう、会いたいけど会えない、というもどかしさにあり、これが媚態だ。普通の女性ならば、この状態に苦しみもがくところだろう。だが彼女は一歩引いて、水のせせらぎによって燃える心を冷まし、悲しい気持を柳の影に投影する。そして諦めの境地になる。その上で、美に昇華させる意気地を見せる。誰にも気兼ねしない自分を蛍に託し、そして彼と仲睦まじく飛び回っていることを思い描く。現実での不可能を美の世界で愛の自由を得る。これが粋だ。 この唄に使われる全ての言葉は美しく、だから歌も美しい。加えて、さわりを含む三味線の音が感傷気分を加える。三味線のわずかにスキップする弾き方が、なるようになるさ的な色合いに染める。 結局小唄はお座敷に合った唄だ。粋の反対は野暮、お座敷で理屈をこねる輩は野暮だ。媚態、意気地、諦めでこの唄を解説したが、...

加賀棒茶屋さんのこだわり

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「加賀棒茶」というブランドがある。スターバックスのフラペチーノに使われたので、知っている人もいるかもしれない。薫りが最大の特徴で、茶系色でしかも美味しい、でも苦くない。 金沢の東茶屋街に、そのメーカーの喫茶室がある。東茶屋街は人気の観光スポットだ。通りの両サイドは伝統的日本家屋がびっしりと建ち、建物のおもては細木細工で格子に編まれた窓がしつらえられている。真ん中の通路は石畳でできている。通りの突き当たりには緑の樹々に覆われた小山が見える。ここにもそこにも向こうにも、近代を感じさせるものは何もない。この街に来ればたちまちのうちに、異次元の地に立ったと思うだろう。「かつて経験したことがないようなことが経験できるかも」、あなたはきっとワクワクするだろう。 加賀棒茶屋さん(丸八製茶場)の喫茶室はその見知の場所の一角にある。ただし「誰でも自由にお入りください」とい気軽さはない。高級鮨屋にも似て、玄関に下がる大きめの暖簾、繊細に組まれた格子の引戸、そしてメニューも値段表示もなくただ店の名前だけが表示されていて、高い店なのだろうと二の足を踏ませる。でもこの街に初めて立った時のワクワクを思い出そう、そしてそれに身を任せて中に入ろうじゃないか。 中は薄暗くて静か、他のお客さんがいても気にはならない。暗さと静けさのせいで少し緊張するかもしれないが、実はそれらはあなたにゆったりしてもらうための仕組なのだ。店員さんが微笑みながらあなたを席に案内してくれる。店員さんは全員女性で薄茶色のブラウスを着ている。その色は薄暗さに溶け込み、これまでの全てはこの薫り豊かな棒茶を楽しむことに焦点が定められているようだ。 しばらくして、それは長くもなく短くもなく、蓋付きの三つの茶碗を載せた板台があなたの目の前に置かれる。小さな紙一枚が渡され、それぞれの茶碗に湯を注ぐ間に三種類の棒茶について説明がなされ、この中からお好みの一点を選んで下さいと求められる。小さな紙はメニューであり、三つの棒茶についてより詳細な説明と値段が書かれている。お茶とお菓子は決して高くはなく、安堵すると同時にこれまでのお店の演出の意図もおぼろげながらわかってくるだろう。それは興味本意の旅行者とあなたを分け隔てるためであり、喫茶室の雰囲気を台無しにしないこと、つまりあなたに心ゆくまでお茶を楽しんでもらうためだということを。三つのお茶はどれ...

住吉大社と言霊

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住吉大社は大阪の南にある。その歴史はとても長く、その社の建築様式は特別だ。礼拝する社が四つあり、その社は住吉造りと言われる。この神社は大阪の守り神と呼ばれるが、他にも航海の神さま、祓えの神さま、安産の神さま、和歌の神さまとも言われる。事実、この神社は底筒男命、中筒男命、上筒男命と神功皇后の四神を祀っていて、それぞれの神に社がある。命三神は古事記に記載があり、伊邪那岐命が黄泉の国から戻って海で禊をした時に生まれた神であり、故に航海の神さま、祓えの神さまとして崇められている。 神功皇后は安産の神さまであり、それは前回書いた通りだ。 だが和歌の神さまについてはその謂れは明かされておらず、この神社の歴史からも紐解くことはできない。そこで敢えて和歌の神さまについて、というより具体的には、日本語について書いてみたいと思う。何故なら和歌はたった17の音で作られた言葉(言の葉)によって多くの意味で構成される複雑な文なのだ。そして言葉は言霊だからだ。 言霊 万葉集に、「大和の国は言霊のさきわう国」という句がある。そして言葉は現実化するという意味を含んでいる。だから和歌の作者は言葉の力を考慮して和歌を作らなければならない。なかなか外国人には理解しがたいことだし、もちろん現代の日本人にも理解しがたい。理解し難い理由は日本語の不思議さにある。日本語の原型は他の言語と違うのだ。最初に、古代に初めて生まれた日本語は音だった。次にその音から意味が生まれた。それはひとつの音が複数の意味を表すことになる。例えば、「アサ」は朝、浅、麻、漁(アサ)のように。又、神を意味する「カミ」は、雷、山(カミ)、主(カミ)、上、髪、紙、噛などの意味を持つ。もちろんひとつの意味だけを持つ言葉はたくさんあり、それらは中国、インド、ポルトガル、オランダそして江戸末期の開国によってもたらされた言葉を起源とする。だが古代の原日本語は先の例のように複数の意味を有する。多くの意味を持つ言葉を使う影響、それは言い表しにくいことだが、困難な状況にある日本人を他国の人々と異なる態度、行動を取らせることになる。2011年にはその態度、行動が海外の人々を驚かし称賛させ、最近では理解に苦しませた。 集合的態度 2011年の大地震は多くの人の命を奪いそして無数の建物を破壊したが、それでも、落ち着いて、礼儀を失わず、自暴...

安産祈願と初宮参り

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中山寺は安産祈願で有名である。参拝者のためのエレベーターやエスカレーターがある寺は少ないが、中山寺はその一つである。建物は壮麗でありしかも古くもないので、賑わっていることが察せられる。参拝したときは雨天早朝であったにもかかわらず、妊婦や赤ん坊をともなった家族が大勢いて、お寺は幸せなムードに包まれていた。 安産祈願 妊婦は安産を願う、それは万国共通なことであるに違いない。日本では、その願いは安産祈願という慣しへと結実した。それは日本古来の深層にある考え方やマジナイでできている。是非その考え方やマジナイを、貴方に知ってもらいたいのである。 まず最初に、妊娠後9週目に霊が胎児の身体に宿る。その時妊婦はつわりをもよおす。これが日本における考え方である。そして妊娠後5ケ月を過ぎると胎児の霊とその母親の霊とは調和するようになる。 次に、日々には干支があり、順番に子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥とい名がある。そして干支の動物の中で戌の出産が一番安産とされている。だから妊娠後5ケ月の最初の戌の日に、安産祈願することが慣しである。 祈祷を受けそして岩田帯をいただく。 妊婦はその岩田帯でお腹を包み込む。安産のための大事なマジナイである。そしてこのマジナイの謂れは古代の偉大な皇后の物語にある。 4世紀、仲哀天皇の妃であった神功皇后は福岡を出港し朝鮮三国を攻めた。皇后は妊娠していたが、上陸後に敵と勇猛に戦った。そして三国を平伏させ、皇后は福岡に戻って後の応神天皇を産んだ。海を渡る間も陸の戦闘の間も、皇后と胎児を護ったものは白い帯であった。この神功皇后の安産と勇敢さにあやかるために、妊婦は岩田帯を身体に巻くのである。 最後に、神道は結婚と出産に重きをおく。この根本的重きがマジナイや歴史的安産物語を呼び寄せたと言って良いのではないか。 新宮参り 出産1ケ月後の赤児を伴って、赤児の健康と成長を願って新宮参りを行う。きちんとした服を着て参拝するのが慣しである。赤児には祝い着をまとうことも慣しである。だから中山寺の空気は安産への願いと無事出産の悦びと華やかさで満ちていた。ちなみに中山寺はお寺であって神社ではない。が、それは関係ないのである。本来お寺と神社は仲が良いのだ。それが日本スタイルというものである。 この慣しを貴方はどう思われるだろうか?是非あな...

七夕物語と機物神社

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「昔々、天の川の西に住む織姫は、幼少の頃から織物がとても得意でした。織姫が天界で織った織物は、瑞々しい霧や雲となって山や野を覆いました。 織姫は成長し、頃合いと思った父神は、天の川の東から牛飼の神である彦星を、婚姻の相手として連れてきました。即座に二人は恋に落ち、以前のようには働かなくなってしまいました。 人々は「天候が変わってしまいました。最近は霧も雲も発生しません」と嘆きました。父神は動揺し織姫と彦星を引き離しました。でも父神は、以前のように働くならば一年に一度だけ会うことを許すという条件を出しました。その日が7月7日です。 それ以降織姫は以前にも増して良く働き、七夕の日を待ち望んだのです。」 日本ではとても有名な話であり、各地で7月7日の七夕祭りが繰り広げられる。人々、特に子供たちは、笹の木に自分たちの願いを書いた短冊をぶら下げる。 中国の原物語 この物語の原型は中国にある。古代に中国から織物に秀でた人々が日本に移住して京都と大阪の中間地に住みついた。彼らは朝廷にとって有用な人々であり、原物語は彼らを通して朝廷人に伝わったに違いない。原物語は以下の内容だ。 「昔々、貧しい牛飼がおりました。偶然に織物神の織姫と出逢い結婚しました。二人は時を待たず子供に恵まれ幸せに暮していました。天界にいる織姫の母神は、手下に娘を連れ戻すように命じました。織姫は家族から引き離され天界に連れ戻されました。牛飼は妻を連れ戻そうと天界に向いましたが、母神は天の川を作って二人が会えないようにしてしまいました。しかし父神は、会えなくなっってしまった二人を不憫に思い、一年に一度だけ会うことを許しました。その日が7月7日です。」 二つの物語はとても似ているけれど、細部は違っている。物語の視点が違う、と僕は思う。原物語は男性目線であり、織姫は受動的だ。一方日本の物語は織姫に焦点があり、彦星は受動的だ。そして、原物語は構造的に、古事記のイザナギとイザナミの物語-イザナギがヨミの国にいるイザナミに会いに向かったが逃げて帰る-に近い。多分原物語はラブストーリーではなかったのだと思う。 何故に違うのだろうか? その理由は朝廷にある、と僕は思う。平安時代に、女官たちは多くのラブストーリーを生み出した。原物語は朝廷に持ち込まれ女官たちの間で人気を得たのだろう。だが、原物語は微...

写経

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「見えないコロナウィルスには、お写経による見えない力で守りませんか?」 須磨寺の小池陽人副住職様がYouTubeを通じて人々に呼び掛けました。 写経 「昔嵯峨天皇は疫病が人々を苦しめていた時、早く鎮静化することを祈って熱心にお写経をされました。そして疫病はおさまりました。」と陽人様は続けました。「写経には功徳があります。ですので、写経の経験がない方でも般若心経を読んだことが無い人でも写経していただけたら、と思います。」とも。 世界の誰もが写経でき、そして写経の功徳を受けられます。般若心経は一文字一文字に神秘の力が宿されていて、たとえその漢字を知らなくても、いや日本語が分からなくてもよいのです。写経によって功徳が与えられます。因みに、昔ある人が漢字が読めない人のために、絵文字で綴った般若心経を作りました。その絵文字を読んだだけでも、本物の般若心経と同じ功徳があるのです。だから言葉を知らなくても写経はできるし写経する意味はあります。 写経の手順は次の通りです。 最初に、須磨寺のホームページにアクセスして、写経用紙を印刷してください。そして黒いインクのペンを準備しましょう。次に、両手を洗いお香を焚きましょう。心を落ち着かせてください。ご自身の健康や、疫病に罹った人の回復などを祈りましょう。そして紙の上の文字をなぞります。写経中は黙って進めてください。写経が終わったら再び祈りましょう。最後に、貴方の願い、住所と名前を書いて、その写経した紙を須磨寺に送ってください、副住職様がお寺で観音様の前にお供えし、皆様のために祈っていただけます。 写経の功徳 写経は私達に神秘の力の証をもたらしてくれます。そして私ももらいました。以下に書いたことは、写経との因果関係は見出せませんが、私はそうに違いないと思っています。 コロナウィルス の緊急事態の間、自宅にいる時には写経をしていました。 ある日自家用車で大阪に行き、タイムズの駐車場に停めました。1時間の用事を終えて、私は駐車場に戻り、車に乗って去りました。しかし数分後に、折り畳んだ一枚の紙がワイパーとフロントガラスの間にあることに気付いたのです。車を止めてそのメモを取って開くと、文章が書いてありました。「右フロントバンパー当て逃げされてますよ。目撃者です。」驚いてフロントバンパーを見ると、...

東大寺; 疫病大流行後の苦難と壮大な希望

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これまで多くの旅行者がひっきりなしに東大寺を訪れていた。旅行者は歴史的仏教施設を見たり、奈良公園で鹿に餌を与えたりして楽しい時間を過ごす。それはとても平和なシーンである。 しかしながら、COVID-19 が極度に世界を変えてしまった。 世界では毎日何千人もの人がCOVID-19で亡くなっている。地球上の多くの人が自宅に籠ることを強いられている。東大寺を訪れる人は今やほとんどいなくなった。 そんな時期ではあるが敢えて言いたい。東大寺建立以来の大仏の真の願いは、人々を慈しみ、疫病から人々を守ることだったことを。建立当時のエピソードを知ってもらえたなら、一層この東大寺に興味を持ってもらえるだろう。 建立の歴史 東大寺建立の最大のキーマンは聖武天皇である。生まれた年は701年、大宝律令が制定された年である。大宝律令は中国の法に倣って天武天皇によって作られた。そして聖武天皇は天武天皇のひ孫にあたり、日本が国家の形を整えていく、その空気の中で育ったと言って良い。しかし政治の実権は天皇ではなく藤原一族にあった。そのため、彼は行動も思考も自由とはいかなかったと想像される。 724年に第四十五代天皇となり、749年に退位した。その25年の在位期間、特に後半はとても厳しい時代であり、歴代天皇の中で最も厳しさを経験した天皇達の一人と言って過言でない。 734年に地震が発生し、それからまもなく、旱魃と飢饉が人民を苦しめた。人々はそんな災難に打ちひしがれたが、でもそれは単に始まりの鐘でしかなかったのである。 734年に九州の大在府で天然痘の疫病が発生した。昔は天然痘にかかると20%から50%の確率で命を失っていたが、もちろん当時の誰もそんなことを知る由もない。疫病は瞬く間に九州全土に広がり、本州に飛び火した。日本にとって天然痘は初めての経験であり、日本人も朝廷もなす術がなく、多くの人が次々と亡くなっていった。737年に疫病は朝廷に襲いかかり、天皇を支えていた藤原4兄弟は全員死んでしまった。聖武天皇は執政を委ねる手足をもがれたが、藤原一族ではなく皇族から次の執政者を選び、この苦境を押さえ込むべく努めた。しかし結局100万人以上の人が感染で亡くなった。それは当時の人口の25%から30%を失うという大惨事となったのである。740年、藤原一族の人間による乱(藤原広嗣の乱)が...