東大寺; 疫病大流行後の苦難と壮大な希望
これまで多くの旅行者がひっきりなしに東大寺を訪れていた。旅行者は歴史的仏教施設を見たり、奈良公園で鹿に餌を与えたりして楽しい時間を過ごす。それはとても平和なシーンである。
しかしながら、COVID-19 が極度に世界を変えてしまった。 世界では毎日何千人もの人がCOVID-19で亡くなっている。地球上の多くの人が自宅に籠ることを強いられている。東大寺を訪れる人は今やほとんどいなくなった。
そんな時期ではあるが敢えて言いたい。東大寺建立以来の大仏の真の願いは、人々を慈しみ、疫病から人々を守ることだったことを。建立当時のエピソードを知ってもらえたなら、一層この東大寺に興味を持ってもらえるだろう。
建立の歴史
東大寺建立の最大のキーマンは聖武天皇である。生まれた年は701年、大宝律令が制定された年である。大宝律令は中国の法に倣って天武天皇によって作られた。そして聖武天皇は天武天皇のひ孫にあたり、日本が国家の形を整えていく、その空気の中で育ったと言って良い。しかし政治の実権は天皇ではなく藤原一族にあった。そのため、彼は行動も思考も自由とはいかなかったと想像される。
724年に第四十五代天皇となり、749年に退位した。その25年の在位期間、特に後半はとても厳しい時代であり、歴代天皇の中で最も厳しさを経験した天皇達の一人と言って過言でない。
734年に地震が発生し、それからまもなく、旱魃と飢饉が人民を苦しめた。人々はそんな災難に打ちひしがれたが、でもそれは単に始まりの鐘でしかなかったのである。
734年に九州の大在府で天然痘の疫病が発生した。昔は天然痘にかかると20%から50%の確率で命を失っていたが、もちろん当時の誰もそんなことを知る由もない。疫病は瞬く間に九州全土に広がり、本州に飛び火した。日本にとって天然痘は初めての経験であり、日本人も朝廷もなす術がなく、多くの人が次々と亡くなっていった。737年に疫病は朝廷に襲いかかり、天皇を支えていた藤原4兄弟は全員死んでしまった。聖武天皇は執政を委ねる手足をもがれたが、藤原一族ではなく皇族から次の執政者を選び、この苦境を押さえ込むべく努めた。しかし結局100万人以上の人が感染で亡くなった。それは当時の人口の25%から30%を失うという大惨事となったのである。740年、藤原一族の人間による乱(藤原広嗣の乱)が起こった。天皇は難を逃れて都を脱出し恭仁京(今の木津川市)に移っている。
当時は、国家のトップの不徳によって災いが起こると思われていた。そして聖武天皇は起こった災いの責任は自分にあると考えた。誠実な人だったのである。
日本を救うために
天皇は若い時から仏教に傾倒していた。そしてこの国難の日本を救うために、仏教の救済力が必要だと考えた。741年に国分寺建立の詔を、続いて743年に東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出した。しかしながら、想像するにその建立費用は当時の国家予算からの配分可能額を超えていたのではないか。宮廷人は、「東大寺を建立する余裕などありません」と反対したに違いない。もしくは、当時の政治システムに合致しない非合理な考えだと天皇を諫めただろう。一方で、人民は当時の主要産業である米を作ることに精が出ず、開墾池は荒れはてていた。当時の開墾池所有権の扱いは共産主義に近く、人民が自身で開墾した土地は三代所有の後国に返さねばならず、それが精が出ない理由だったのである。聖武天皇は、人民との連携こそこの国の再建に必要であり、そのためには人民のやる気向上が必須であると考えたに違いない。そこで大仏建立を発令した同じ年に墾田永年私財法を制定した。それは大宝律令以来の朝廷のスタンスを大きく変えるものだった。いつの時代でも保守的思考が強い宮廷人達は、天皇を支持しなかっただろうし、天皇はその後も二度遷都し結局平城京に戻っている事実に、政治の混乱が垣間見れる。
建立に向かって
仏教は国家繁栄のためのものなのだが、仏教信仰は朝廷官僚以上の地位の人のためのものだと、宮廷人は考えていた。そんな中、人民に仏教を伝え人民の救済を行っていた僧侶がいた。行基であり、人民に絶大な人気があったが、地位の高い僧侶連中は行基を嫌い、官定仏教界から行基を追い出した。
ところがその行基に聖武天皇は注目した。行基が東大寺建立に協力してくれれば人民の協力が得られる、と考えたに違いない。記録こそ無いが、行基を嫌う僧侶や宮廷人から、古いしきたりに従うよう圧力があったことは容易に想像がつく。だが聖武天皇は行基に建立支援を依頼した。
行基は人民の協力を得るために各地を回った。その結果、木材拠出者5万1900人、それを運搬協力した人166万5071人。金銅を拠出した人37万2075人、それを搬送した人51万4900人と記録が残っている。
当時の日本の人口は、天然痘によって100万人を失った後で約300万人である。計数的には、ほとんどの大人が建立に参加したことになる。
人民は愛する人を失った慟哭に耐え、官僚は混沌の中に、そして聖武天皇は苦悩の中にいた。繰り返すが、東大寺建立は天皇の威光を示すような政治文脈でなされたものではない。建立は国家と人民を救う聖武天皇の希望、それが行基の希望となり人民の希望となったのである。
聖武天皇の性格は知られていないが、宮廷人や人民をコントロールできるような強いリーダーではない。天皇は正直でどちらかと言えば気の弱い人、だから在位中のあらゆる困難が何度も天皇を苦しめた。仏教を信仰し、その信仰心が聖武天皇を東大寺建立に邁進させたことは疑いない。加えて天皇は人民と協力する思いがあり、行基はそれに魅了され、天皇は人民の協力を得た。建立に手を貸した人々の数は奇跡と言えるだろう。中国の法に模した国家作りという仕組の中で、どうして天皇は人民と手を取り合うような平等性を持ち合わせていたのかはわからない。敢えて言うなら、その答えを天皇の資質に求めるのではなく、この平等性こそ日本古来の根底にあるものに違いない。
751年、聖武天皇退位の6年後東大寺は完成し、建立の祝典は盛大に執り行われた。上皇は存命だったが、この空前絶後の建立事業完成をどう思っていただろうか。それは知る由も無いが、きっと感無量だったのではないだろうか、ぜひ想像してみていただきたい。上皇は国家を危機から脱出させたことだけは間違いない。749年、共に時代を歩いた光明皇后に看取られながらその人生を閉じた。
しかしながら、COVID-19 が極度に世界を変えてしまった。 世界では毎日何千人もの人がCOVID-19で亡くなっている。地球上の多くの人が自宅に籠ることを強いられている。東大寺を訪れる人は今やほとんどいなくなった。
そんな時期ではあるが敢えて言いたい。東大寺建立以来の大仏の真の願いは、人々を慈しみ、疫病から人々を守ることだったことを。建立当時のエピソードを知ってもらえたなら、一層この東大寺に興味を持ってもらえるだろう。
建立の歴史
東大寺建立の最大のキーマンは聖武天皇である。生まれた年は701年、大宝律令が制定された年である。大宝律令は中国の法に倣って天武天皇によって作られた。そして聖武天皇は天武天皇のひ孫にあたり、日本が国家の形を整えていく、その空気の中で育ったと言って良い。しかし政治の実権は天皇ではなく藤原一族にあった。そのため、彼は行動も思考も自由とはいかなかったと想像される。
724年に第四十五代天皇となり、749年に退位した。その25年の在位期間、特に後半はとても厳しい時代であり、歴代天皇の中で最も厳しさを経験した天皇達の一人と言って過言でない。
734年に地震が発生し、それからまもなく、旱魃と飢饉が人民を苦しめた。人々はそんな災難に打ちひしがれたが、でもそれは単に始まりの鐘でしかなかったのである。
734年に九州の大在府で天然痘の疫病が発生した。昔は天然痘にかかると20%から50%の確率で命を失っていたが、もちろん当時の誰もそんなことを知る由もない。疫病は瞬く間に九州全土に広がり、本州に飛び火した。日本にとって天然痘は初めての経験であり、日本人も朝廷もなす術がなく、多くの人が次々と亡くなっていった。737年に疫病は朝廷に襲いかかり、天皇を支えていた藤原4兄弟は全員死んでしまった。聖武天皇は執政を委ねる手足をもがれたが、藤原一族ではなく皇族から次の執政者を選び、この苦境を押さえ込むべく努めた。しかし結局100万人以上の人が感染で亡くなった。それは当時の人口の25%から30%を失うという大惨事となったのである。740年、藤原一族の人間による乱(藤原広嗣の乱)が起こった。天皇は難を逃れて都を脱出し恭仁京(今の木津川市)に移っている。
当時は、国家のトップの不徳によって災いが起こると思われていた。そして聖武天皇は起こった災いの責任は自分にあると考えた。誠実な人だったのである。
日本を救うために
天皇は若い時から仏教に傾倒していた。そしてこの国難の日本を救うために、仏教の救済力が必要だと考えた。741年に国分寺建立の詔を、続いて743年に東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出した。しかしながら、想像するにその建立費用は当時の国家予算からの配分可能額を超えていたのではないか。宮廷人は、「東大寺を建立する余裕などありません」と反対したに違いない。もしくは、当時の政治システムに合致しない非合理な考えだと天皇を諫めただろう。一方で、人民は当時の主要産業である米を作ることに精が出ず、開墾池は荒れはてていた。当時の開墾池所有権の扱いは共産主義に近く、人民が自身で開墾した土地は三代所有の後国に返さねばならず、それが精が出ない理由だったのである。聖武天皇は、人民との連携こそこの国の再建に必要であり、そのためには人民のやる気向上が必須であると考えたに違いない。そこで大仏建立を発令した同じ年に墾田永年私財法を制定した。それは大宝律令以来の朝廷のスタンスを大きく変えるものだった。いつの時代でも保守的思考が強い宮廷人達は、天皇を支持しなかっただろうし、天皇はその後も二度遷都し結局平城京に戻っている事実に、政治の混乱が垣間見れる。
建立に向かって
仏教は国家繁栄のためのものなのだが、仏教信仰は朝廷官僚以上の地位の人のためのものだと、宮廷人は考えていた。そんな中、人民に仏教を伝え人民の救済を行っていた僧侶がいた。行基であり、人民に絶大な人気があったが、地位の高い僧侶連中は行基を嫌い、官定仏教界から行基を追い出した。
ところがその行基に聖武天皇は注目した。行基が東大寺建立に協力してくれれば人民の協力が得られる、と考えたに違いない。記録こそ無いが、行基を嫌う僧侶や宮廷人から、古いしきたりに従うよう圧力があったことは容易に想像がつく。だが聖武天皇は行基に建立支援を依頼した。
行基は人民の協力を得るために各地を回った。その結果、木材拠出者5万1900人、それを運搬協力した人166万5071人。金銅を拠出した人37万2075人、それを搬送した人51万4900人と記録が残っている。
当時の日本の人口は、天然痘によって100万人を失った後で約300万人である。計数的には、ほとんどの大人が建立に参加したことになる。
人民は愛する人を失った慟哭に耐え、官僚は混沌の中に、そして聖武天皇は苦悩の中にいた。繰り返すが、東大寺建立は天皇の威光を示すような政治文脈でなされたものではない。建立は国家と人民を救う聖武天皇の希望、それが行基の希望となり人民の希望となったのである。
聖武天皇の性格は知られていないが、宮廷人や人民をコントロールできるような強いリーダーではない。天皇は正直でどちらかと言えば気の弱い人、だから在位中のあらゆる困難が何度も天皇を苦しめた。仏教を信仰し、その信仰心が聖武天皇を東大寺建立に邁進させたことは疑いない。加えて天皇は人民と協力する思いがあり、行基はそれに魅了され、天皇は人民の協力を得た。建立に手を貸した人々の数は奇跡と言えるだろう。中国の法に模した国家作りという仕組の中で、どうして天皇は人民と手を取り合うような平等性を持ち合わせていたのかはわからない。敢えて言うなら、その答えを天皇の資質に求めるのではなく、この平等性こそ日本古来の根底にあるものに違いない。
751年、聖武天皇退位の6年後東大寺は完成し、建立の祝典は盛大に執り行われた。上皇は存命だったが、この空前絶後の建立事業完成をどう思っていただろうか。それは知る由も無いが、きっと感無量だったのではないだろうか、ぜひ想像してみていただきたい。上皇は国家を危機から脱出させたことだけは間違いない。749年、共に時代を歩いた光明皇后に看取られながらその人生を閉じた。
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