須磨寺護摩行: 不動明王と火炎のスピリチュアルな儀式

例えば病気平癒、良縁祈願、受験合格、仕事成就などの望みがあるとき、そして目に見えない力が欲しい時、あなたならどうしますか?そんな時日本人は神社に行って神さまにお願いします、「どうか願いを叶えてください」と。神社に行って祈る、そうです簡単です。実はお願いする方法は神社に行く以外にもあって、 護摩という行があります。護摩は火焔を用い、そして和太鼓と読経が加わるのでスピリチュアルな雰囲気を帯びた行です。神社での祈りよりも深遠で霊力も強い。だから、スピリチュアル日本についてもっと知りたいと思っている方、又は願望実現を祈りたいなら、護摩に参加することを勧めます。日本での最高の経験の一つになること疑いなしです。
護摩行はおよそ1300年の歴史があり、高野山を開いた空海によって始められました。空海は護摩行において不動明王の役割に非常に重きを置きました。そして不動明王に祈る御堂、一般に“お不動さん”と言いますが、全国津々浦々に建てられました。妻と僕は神戸にある須磨寺の護摩に参加したので、そこでの進行に沿ってこの行のことを説明します。

不動明王とともに

須磨寺では月に数回護摩堂で護摩が行われます。御堂内には数点の仏像があり、その中で不動明王像が一番重要な像です。護摩に参加する人々は前もって護摩木に願いを書き、御堂に集合します。

護摩は三人の僧侶によって執り行われます。主となる僧侶は火焔を司り、あと和太鼓を受け持つ人と補助する僧侶に役割が別れています。僧侶の導きによって参列者は読経します。僕はお経や真言の意味はよくわかっていないけれど、ともかく読経します。

和太鼓のリズムがこの護摩をリズミカルに進行させます。主僧はずっと火焔のそばに居続けますが、同じことを素人がやったなら、間違いなくやけどしてしまうでしょう。その間主僧は定められた細かい手順や作法を行なっていますが、全て秘法です。主僧の差配によって、火焔はゆらゆらと燃えつつ大きくなったり小さくなったりします。

不動明王像の際立った特徴は、鬼のような怒りの形相、背中の炎、右手に剣と左手の縄です、そして日本にある多くの不動明王像の体は青色、そしてここ須磨寺の像も青です。 護摩の火焔が不動明王像を照らし、不動明王は生きているかのようです。

どうして不動明王像の外観は他の優しい顔の仏像と違うのでしょう?空海が起こした真言宗では宇宙の根源といわれる大日如来を最も尊崇します。その大日如来が貪瞋痴に染まった人々を救うために敢えて不動明王に遷移したのです。だから優しく接したのでは改心しないような、どうしようもない人々を救う為に上記の特徴を保持しています。そう言えば不動明王像にはどことなく美しさが感じられますね。

御堂内の熱気は火焔と打ち続く太鼓、そして読経によりどんどん高まっていきます。護摩は最後の講話を含めて約1時間を要しますが、長くは感じません。そして護摩が終わった後、僕たちの心内は軽くて澄み渡り、願いも忘れ去ってしまうのです。

不動明王と火焔と一体になる、それが護摩

今回は須磨寺副住職の小池陽人様が主僧を勤められました。
陽人副住職は護摩の疲れも見せず、火焔で火照った顔のまま次のように講話を始めました。

「護摩に参加された多くの方々から、願いが成就したとの報告を幾つも受けます。本当に護摩は目に見える形の利益があります。でも実は目に見えない利益こそ大事です。
護摩で大事なことは不動明王と火焔と一体となることです(三平等)。不動明王像はとても厳しい姿をしていますが、厳しさは私たちの成長には欠くべからざるものです。何故なら私たちはすぐに成長しない状態に馴染んでしまうからです。そして不動明王の心内は大日如来の慈悲そのものです。火焔は智を現しています。仏教の智は暗闇の中で衆生を導く法灯です。私達は護摩によって不動明王と法灯と一体になります。そして不動明王が私達の心内に移ります。これが目に見えない利益です。だから護摩を行った後の私の心はスッキリしています。
護摩の後では智に従って生活し、周りの人々に優しく接しましょう。周りの人々を愛すれば愛するほど、私たちは周りの人々から愛されるでしょう。それが私たちに幸せやチャンスや幸運をもたらしてくれます。」
妻と僕はこの講話から多くを学び、護摩の利益(加持)とはそういうものであることが少しわかりました。では、心内の不動明王はどう働くのだろう?という疑問が芽生えました。陽人副住職はそれには触れなかったので、今までの自分の経験をもとに考えてみました。心の中にはもう一人の自分がいるとよく聞きます、そのもう一人の自分がきっと不動明王の智を帯びるのでしょうね。そして剣で自分の貪瞋痴を切り離したり、他者や社会に対するネガティブな感情を切り落としてくれる。さらに自分自身を貪瞋痴の泥沼に落ちぬようにロープで救い出してくれるのでしょう。それとも 心の中の不動明王は「本気でやれ」と叱咤しているのかもしれない。

でもちょっと待って。意識しようがしまいが僕たち日本人は心があることがわかっていて、その心に不動明王を移すことは感覚的に理解でき、さらにはそれぞれの心には神(仏性)が宿っている、ということもなんとなく知っています。ただ残念ながらそのことを日々の生活で忘れてしまうので、僕たちは時々お寺や神社に行って思い出すべきなのでしょう。
もちろん外国人にも心はあります。だから外国人もお寺や神社に行くべきでしょ?ね、護摩に行きましょう!

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