山桜

今日街々で普通に目にする桜は、18世紀の江戸時代に開発されたソメイヨシノという品種だ。ソメイヨシノは春に急速に開花、満開の桜は美しく、人々はソメイヨシノの桜の下で花見を楽しむことができる。そして、あまり時を経ずに散る花吹雪は名残惜しい。日本人はそんな桜の変化が好きだ。それがソメイヨシノが日本中に広がった理由ではないか。ソメイヨシノは天然の植物ではなくその遺伝子は日本中のどのソメイヨシノも同じ、そう全てクローンだ。

桜の起源は山々で咲く山桜だ。多分山で咲く他の木々と大きな違いは無かったに違いない。でも山桜のいくつかの特徴が古代日本人の心に触れたのだろう。今回は山桜がどのようにしてソメイヨシノに変遷したのかについて書いてみたい。






山桜を見出した人達

古代知識階級の人々にとって花といえば梅だった。多くの歌詠みが、梅の花について和歌を作り万葉集に残している。また13世紀の偉大な仏教者である道元は、最も大事な花として梅を挙げ、書き述べている。梅優位の中で12世紀の西行は、桜を詠んだ和歌をたくさん残した。しかし西行は京都の武家の出身、桜の良さを最初に発見した人ではない。その当時の桜の人気は、圧倒的な梅の人気に隠れて徐々に大きくなっていたのだろう。

それ以前に、山桜の神聖さと美しさを知っていた人達はいたのだ。彼らは有史以前から日本の各地で神様を崇めていた人達だ。彼らは、神様は桜の木に降りて宿ると考えていた。彼らの後継者が修験者だと思う。理由は、山桜の二大名所が、修験道場である吉野山と醍醐山だからだ。神道は清らかさを求める、そして仏教は諸行無常を教える。山桜も清らかで変化が早い。だからこそ古代の修験者は山桜を好んだと思う。

現役の修験者の一人は、山桜は供養であり浄土実現だと言う。結局桜は、古代に於いては大きな希望を帯び、宗教的意味があったのだ。そこには花見宴会をする余地などどこにも無かった。


史上最大の花見 

山桜を愛でる決定的変革が、京都の醍醐寺で1598年に起こった。1956年の慶長伏見地震が京都を襲い、伏見城や家々を破壊し、何千人もの人々を死に追いやった。さらに悪いことに経済が落ち込んだ。京都の町人、武士、公家は打ちのめされ、どうして良いかわからない状態でいのちを繋いでいた。関白秀吉は、人々の気分を前向きにさせるような、突拍子もないことを編み出さなければならないと思ったに違いない。

秀吉はいまだかつてない大規模な花見を醍醐寺で催すことを決めた。各地の山桜700本を、山桜で有名な醍醐寺に移し植えさせた。商人に新しい料理を作らせ出店させた。お茶、能、華道、踊りなどの芸能を集合した。一人に3着、1600人の女御なので総計4800着の着物を作らせた。太閤の花見又は醍醐の花見とも言われるこの催しは、地震で亡くなった人々の鎮魂の儀であり、人々の沈んだ気分を上向きにさせる企てであり、経済復興の起爆であった。秀吉が亡くなる年の春のことであり、年老いた秀吉の最後の大仕事だった。

秀吉の死から100年以上たって、徳川幕府は治水のために川端に土手を築き、その土手に桜を植えた。人々に桜を観に来させて、まだ柔らかい土手を踏み固めるためだった。

それが一般人にも花見という行事を浸透させた。山で咲いていた桜を平地でも咲くように品種改良、開発し、桜の植樹を促したと思う。

大昔、桜は神が宿る木として扱われていた。日本において神様は命に通じるものであり、満開や散る桜を見ることは、命の息吹を感じる行為だった。時を経てソメイヨシノが生まれた。そう、ソメイヨシノは桜に宿る命の息吹を愛し、人々を熱くさせるシンボルなのだ。

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